プロトタイプ論読本
「プロトタイプ」という語は、二つのまったく別の議論で中心に置かれている。一つは認知心理学で、エレノア・ロッシュが 1970 年代に示した、人はカテゴリーを定義ではなく典型例からの近さで扱うという理論である。もう一つは人類学と科学技術社会論で、試作品を「完成しないまま人々を集める物」として論じる議論である。この読本は二つを順に説明し、最後に並べて、プロトコル論読本との関係を考える。
二つの「プロトタイプ」
プロトタイプ(prototype)はギリシア語の prōtos(最初の)と typos(型、打たれた跡)から来た語で、「最初の型」を意味する。日常語では、製品の試作品を指すことが多い。学術の文脈では、この語は少なくとも二つの別々の議論で中心概念になっている。
あるカテゴリーの中で最もそのカテゴリーらしいと判定される例、またはその例が持つ特徴のまとまり。「鳥」のプロトタイプはスズメやコマドリのような鳥で、ペンギンは鳥ではあるがプロトタイプから遠い。ロッシュの理論では、カテゴリーの成員は境界線で決まるのではなく、プロトタイプからの近さによって段階的に決まる。
完成品になる前の試作品であり、同時に、それを囲んで人が集まり、意見を出し、作り直すための物。人類学者のコルシン・ヒメネスは、試作品を、まだ確定していない可能性を宙づりのまま保つ形として論じたCorsín Jiménez 2014。ここでのプロトタイプは、結果をまとめる型ではなく、これから起きることを先取りして示す物である。
| 認知心理学(ロッシュ) | 人類学・科学技術社会論 | |
|---|---|---|
| プロトタイプとは | カテゴリーの中心にある典型例 | 完成前の試作品と、それを囲む実践 |
| 何に対抗するか | 定義(必要十分条件)によるカテゴリー観 | 完成品を前提にした設計と、閉じた研究開発 |
| 時間の向き | 多くの経験をまとめた結果(後ろを向く) | まだない多くの物を先取りする(前を向く) |
| 方法 | 実験(評定、反応時間、学習) | 民族誌(現場に入って記録する) |
| 代表的な文献 | Rosch 1975、Rosch & Mervis 1975、Rosch+ 1976 | Suchman+ 2002、Corsín Jiménez 2014 |
二つの議論は、直接の影響関係をほとんど持たない。同じ語を使っているのは、語源の「最初の型」が両方の意味を含んでいるからである。ただし、並べてみると共通点がある。どちらも、明確な定義や完成した規格がなくても、人が物事を扱い、集まり、決めていけることを示そうとしている。この点は第 6 章で扱う。
プロトコル論読本では、規格に従う者だけがつながるという、境界のはっきりした管理を扱った。プロトコルへの適合は「従っているか、いないか」の二値で決まる。この読本で扱う二つのプロトタイプは、どちらもこの二値の外側にある。典型性は程度の問題であり、試作品はまだ規格になっていない。第 6 章では、試作品がプロトコルになる過程をつなぎとして使う。
定義によるカテゴリーとその問題
この読本では、ロッシュの議論の typicality を「典型性」、prototype を「プロトタイプ」、basic level を「基本レベル」、family resemblance を「家族的類似」と訳す。人類学の議論で試作品そのものを指すときは「試作品」とし、議論の概念として指すときは「プロトタイプ」と書く。人の判断について「〜と感じる」と書く場合は、実験で測った評定や反応時間を指す。
古典的なカテゴリー観
アリストテレス以来の伝統的な考え方では、カテゴリーは必要十分条件で定義される。「独身男性」は「男性である」「成人である」「結婚していない」の三条件をすべて満たすものであり、満たさないものは含まれない。この考え方には三つの帰結がある。境界ははっきりしている。成員はすべて対等に成員である。カテゴリーの意味は条件のリストで書き尽くせる。
この見方は論理学や数学では有効であり、1960 年代までの心理学の概念学習の実験も、多くは人工的に定義されたカテゴリー(「赤くて四角いもの」など)を使っていた。
ウィトゲンシュタインの「ゲーム」
ウィトゲンシュタインは『哲学探究』(1953)で、「ゲーム」という語のすべての用例に共通する条件はないと論じた。ボードゲーム、球技、一人遊びのトランプには、勝ち負け、技能、運などの特徴が部分的に重なり合っているが、全部に共通する特徴はない。彼はこれを、家族の顔が目や鼻や歩き方で部分的に似ている様子にたとえ、家族的類似と呼んだ。ロッシュはのちにこの考えを実験で確かめる(第 3 章)。
境界のぼやけ方は、言語学者ラボフの 1973 年の実験でも示された。ラボフは、幅と深さの比を少しずつ変えたコップや碗やマグの線画を見せて名前を付けさせ、「コップ」と「碗」の境界が連続的に移ること、中身が食べ物かコーヒーかという想定だけで境界が動くことを報告した。
ロッシュの実験
エレノア・ロッシュ(1938 年生まれ)は、ハーヴァード大学で学んだのちカリフォルニア大学バークレー校で長く教えた心理学者である。初期の論文は旧姓のハイダー(Heider)で発表されている。彼女の仕事は、色の研究から始まり、自然のカテゴリー一般へ広がった。
色の焦点
1969 年、人類学者のバーリンとケイは、多くの言語の基本色名を比べ、色名の数は言語によって違うが、各色名が最もよく当てはまる色(焦点色)は言語をまたいでよく一致すると報告した。ロッシュはこれを記憶と学習の実験で調べた。
対象は、ニューギニア高地のダニ族の人々である。ダニ語には基本色名が二つしかなく、おおまかに暗く冷たい色と明るく暖かい色を分ける。ロッシュは、ダニ語の話者とアメリカ英語の話者の両方で、焦点色が焦点でない色より正確に記憶されること、ダニ語の話者が焦点色に新しい名前を早く覚えることを報告したHeider 1972Heider+ 1972。色名を持たなくても焦点色が記憶で有利になるので、カテゴリーの中心は言語より先に、知覚の側にあるという解釈である。
典型性の評定
1975 年、ロッシュは、家具・果物・乗り物・武器・野菜・道具・鳥・スポーツ・おもちゃ・衣服の 10 のカテゴリーについて、それぞれ数十の成員が「そのカテゴリーのよい例」である度合いを 7 段階で評定させたRosch 1975。評定は参加者の間でよく一致し、「鳥」ではコマドリやスズメが高く、ペンギンやダチョウが低かった。「家具」では椅子やソファが高く、電話や灰皿が低かった。
典型性は評定だけでなく、行動の指標にも現れた。典型的な成員ほど「コマドリは鳥か」のような判定が速く、子どもが早く覚え、例を挙げさせると先に挙がる。典型性は、カテゴリーの成員が対等ではないことを、複数の方法で示した。
家族的類似を測る
ロッシュとマーヴィスは 1975 年、典型性がどこから来るかを調べたRosch+ 1975。参加者に各成員の特徴(羽がある、飛ぶ、さえずる、など)を書き出させ、ある成員の特徴が同じカテゴリーの他の成員とどれだけ共有されているかを数えた。この共有の度合いが高い成員ほど、典型性の評定が高かった。さらに、典型的な成員は、隣のカテゴリーの成員とは特徴をあまり共有していなかった。
この結果は、ウィトゲンシュタインの家族的類似を数えられる形にしたものである。全員に共通する特徴がなくても、特徴の重なりの網がカテゴリーをまとめ、網の中心にある成員がプロトタイプになる。
基本レベル
1976 年、ロッシュらは、カテゴリーの階層の中に特別な段があることを示したRosch+ 1976。「家具 — 椅子 — 台所の椅子」のような三段の階層では、真ん中の「椅子」の段が多くの点で優位になる。
ロッシュ自身の整理
1978 年の論文「カテゴリー化の原理」で、ロッシュは二つの原理を挙げた。一つは認知の経済で、少ない労力で多くの情報を得られるようにカテゴリーが作られるという原理である。もう一つは知覚される世界の構造で、世界の特徴はでたらめに組み合わさっておらず、羽とくちばしのように一緒に現れやすいという原理である。カテゴリーは、心が世界に勝手に引いた線ではなく、世界の側の相関の構造をすくい取るものとされた。
ロッシュは同じ論文で、典型性の効果は観察された事実であり、心の中でカテゴリーがどう表現されているかの理論ではないと注意した。「頭の中にプロトタイプの絵が一枚ある」という読み方は、彼女の主張より強い。この区別は第 4 章の批判を理解するうえで欠かせない。(この留保は 1978 年の論文の内容として広く紹介されているが、この読本の作成時に原文は参照できていない。)
批判と対抗する理論
プロトタイプ理論は 1970 年代後半から急速に広がり、同時に多くの批判を受けた。概念の理論は、ここからいくつかの系統に分かれる。六つの立場をタイルで示す。
必要十分条件
境界ははっきりし、成員は対等。数学や法の概念には今も有効である。
典型性は定義を否定しない
1983 年、アームストロングとグライトマン夫妻は、「奇数」のように定義がはっきりしたカテゴリーでも典型性の効果が出ることを示したArmstrong+ 1983。参加者は 3 を 447 より「よい奇数」と評定し、同じ参加者が、奇数は 2 で割り切れない数であり程度の差はないとも答えた。典型性の評定が出ることは、カテゴリーが定義を持たないことの証拠にならない。人は定義と典型性を同時に持ちうる。第 3 章の最後に置いたロッシュの留保は、この批判をある程度先に見越したものと読める。
組み合わせの問題
オシャーソンとスミスは 1981 年、プロトタイプが組み合わせに弱いことを指摘したOsherson+ 1981。「ペットの魚」の典型例(金魚)は、「ペット」の典型例(犬や猫)とも「魚」の典型例とも似ていない。二つのプロトタイプを組み合わせても、組み合わせた語のプロトタイプは得られない。言語では語が自由に組み合わされるので、概念の理論はこの組み合わせを説明する必要がある。
範例か、要約か
プロトタイプ理論の最初の実験的な根拠の一つは、ポズナーとキールの点のパターンの実験だったPosner+ 1968。参加者は、ある基準のパターンを少しずつ崩した例だけを学習し、基準のパターンそのものは見ていない。それでも試験では、基準のパターンを学習した例と同じくらいよく分類した。心が例から要約(プロトタイプ)を抽出しているという解釈である。
範例理論は、同じ結果を、要約を作らずに説明する。基準のパターンは学習した例のすべてに少しずつ似ているので、例との類似を足し合わせれば高い値になる。1980 年代以降、二つの理論を区別する実験が数多く行われ、少ない例で学ぶ場面では範例の説明が、大きく多様なカテゴリーでは要約の説明が合いやすいという報告が多い。現在は、どちらか一方ではなく両方の仕組みが場面によって働くという見方が有力であるMurphy 2002。
色の焦点の追試
2000 年、ロバーソンらは、パプアニューギニアのベリンモ語の話者で、ダニ族の実験の追試を行ったRoberson+ 2000。回答の偏り(焦点色らしい色を選びやすい傾向)を統制すると、焦点色の記憶の有利さは見られず、色名の区切りが知覚の判断に影響していた。ロッシュの 1972 年の報告は、言語より知覚が先にあるという立場の代表的な根拠だったので、この追試は色と言語の関係の議論を再び開くことになった。現在も、普遍的な焦点があるという立場と、言語が区切りを作るという立場の間で議論が続いている。
人類学の試作品論
もう一つの「プロトタイプ」は、試作品そのものである。設計や工学では、試作品は完成品に至る途中の段階であり、完成すれば捨てられる。人類学と科学技術社会論の研究者は、この途中の段階で何が起きているかを現場で観察し、試作品を、技術と人を結びつける独自の物として論じるようになった。
ゼロックス PARC の「働く人工物」
ルーシー・サッチマンは、ゼロックスのパロアルト研究所(PARC)で、技術者と利用者の間に立つ人類学者として働いた。サッチマン、ブロンバーグ、トリッグの 2002 年の論文「働く人工物」は、研究所の技術者が作る試作品が、実際の職場に持ち込まれたときに何をしているかを記述したSuchman+ 2002。
彼女たちの論点は、新しい技術は発明の一瞬に生まれるのではなく、組み立て、実演し、見せるという継続的な実践の中で形になる、というものである。試作品は、研究開発の側の関心と、職場で技術が実際に使われる仕方とを揃えるための物として働く。そのため、うまくいく試作品は、現場の人にとって見慣れていて、しかも新しいと分かるものでなければならない。見慣れすぎていれば研究の価値がなく、新しすぎれば現場の人が手を出せない。
コルシン・ヒメネスと「ベータ版の文化」
スペインの人類学者アルベルト・コルシン・ヒメネスは、マドリードの文化施設メディアラボ・プラドで、デジタルアーティスト、メディア活動家、研究者の共同体を民族誌の対象にした。この施設の職員は、自分たちの場所を「他人と一緒に作る」学びを試作する場所だと説明していたMedialab 2010。2010 年 11 月には、コルシン・ヒメネスとアドルフォ・エスタレージャが、社会的実験、自作の科学、ベータ版の知識を主題にした会議「プロトタイピングの文化」をこの施設で開いたCCHS 2010。
この流れから生まれたのが、2014 年の『文化経済学雑誌』の特集と、その序論「プロトタイプ: 多数より多く、一より少ない」であるCorsín Jiménez 2014。特集はのちに『プロトタイピングの文化: ベータ版の芸術・科学・政治』として本になったRoutledge。
要旨によれば、序論の論点は三つあるMediawell。第一に、「プロトタイピング」は、設計、工学、芸術、科学技術社会論にまたがる文化的な語りになっている。第二に、試作品は物質文化としても社会学の概念としても扱える。第三に、試作品は「宙づり」と「期待」の形であり、まだ両立するかどうか分からない複数の可能性を、捕らえておく罠のように働く。
題の「多数より多く、一より少ない」は、試作品の数の数え方を指していると読める。試作品は一つの物だが、それが示しているのはまだ作られていない多くの物である。同時に、試作品は完成した一つの製品にはまだなっていない。この言い回しは、人類学者のストラザーンや哲学者のモルが、部分的につながった全体を指して使った「一より多く、多数より少ない」を反転させたものと読める。(この読み方はこの読本によるもので、序論の本文で確かめたものではない。)
コルシン・ヒメネスの 2014 年の序論は有料の雑誌に掲載されており、この読本の作成時に本文を読めなかった。上の三つの論点は、公開されている要旨と書誌情報による。引用する前に本文を確かめてほしい。
寄り道 1: 民族誌そのものを試作品として
コルシン・ヒメネスとエスタレージャは、のちに「民族誌: 一つのプロトタイプ」という論文を出し、人類学の方法そのものを試作品として捉え直したCorsín Jiménez+ 2017。民族誌の研究者は、現場の人々と一緒に記録の道具や議論の場を作り、それを作り直しながら調査を進める。研究者は観察者であるだけでなく、試作の共同参加者になる。対象を外から記述する方法から、対象と一緒に試作する方法への移行を提案した論文である。
試作品の二つの生き方
工学の教科書的な見方では、試作品は完成品に至るための使い捨ての段階である。ブルックスの『人月の神話』(1975)が勧めた「一つは捨てるつもりで作れ」は、この見方をよく表している。これに対して、オープンソースや市民の工作の現場では、試作品が完成しないまま公開され、他人に複製され、改造され続ける。社会学者のネフとスタークは、このように常に未完成のまま運用される状態を「永久のベータ版」と呼んだNeff+ 2004。
寄り道 2: 映画の中の試作品
科学技術社会論のデイヴィッド・カービーは、映画の中に登場する未来の技術が、本物らしく動いて見えるように専門家の監修を受けて作られることに注目したKirby 2010。彼はこれを「物語内の試作品(ディエジェティック・プロトタイプ)」と呼び、映画の中で機能して見える技術が、観客や投資家の期待を集め、現実の開発を後押しすることを論じた。物理的な試作品を作る前に、物語の中の試作品が人と資金を集めている。コルシン・ヒメネスの言う「期待の形」としての試作品の、一つの極端な例である。
二つを並べる
ロッシュのプロトタイプと人類学の試作品は、別々の分野で別々の問いに答えている。それでも並べると、一つの軸の上の二つの向きとして読める。
時間の向き
ロッシュのプロトタイプは、多くの経験を積み重ねた結果として現れる。人は多くの鳥を見たあとで、どの鳥が鳥らしいかを判定できるようになる。プロトタイプは、すでにある多くの成員を一つにまとめる型であり、時間の上では後ろを向いている。
人類学の試作品は、まだない多くの物を先取りする。一台の試作品は、それを複製し改造してできるかもしれない多くの物を、まだ作られていないまま示している。試作品は前を向いている。題の「多数より多く、一より少ない」は、この前向きの数え方を言い表している。
どちらも定義の外にある
二つの議論には共通の相手がいる。ロッシュが対抗したのは、必要十分条件でカテゴリーを決める見方だった。人類学の試作品論が対抗したのは、完成品の仕様を先に決め、それに向けて作る見方だった。どちらも、はっきりした定義や仕様がなくても、人はものを分類し、集まり、作っていけることを示そうとしている。
プロトコルとの関係
プロトコル論読本で扱ったプロトコルは、この点で反対側にある。パケットが規格に合っているかどうかは、必要十分条件で判定される。プロトコルへの適合は、古典的なカテゴリーと同じ形をしている。プロトコルが命令なしに管理として働くのは、この二値の判定を、相手の機械が自動で行うからだった。
そして、試作品はプロトコルの出発点でもある。IETF の「大まかな合意と動くコード」という流儀では、規格の文書より先に、動く試作の実装が求められる。ある試作がまず動き、他の実装がそれに合わせ、やがて規格として書かれる。Google の通信方式の試作が QUIC という標準になった経過は、この流れの例である。
この流れの中間の段で、ロッシュの典型性が働いている。最初に動いた実装は、後から来る実装にとって「規格らしさ」の基準になる。規格の文書が書かれる前には、適合は程度の問題であり、最初の実装にどれだけ近いかで判断される。規格が書かれると、適合は二値になる。試作品から典型へ、典型から定義へという流れは、どの試作が典型として選ばれるかという問題を含んでいる。プロトコル論読本の第 6 章で見た、大きなプラットフォームが規格を書く側に回るという現象は、この選択の段に力を持つことだと言い換えられる。
短い歴史
二つの系統の出来事を一つの年表に並べる。項目をクリックすると詳細が開く。
二つの系統は、1970 年代と 2010 年代に、それぞれの山を持つ。ロッシュの系統は 1970 年代に実験で始まり、1980 年代の批判を経て、概念の理論の一つの立場として定着した。人類学の系統は 2000 年前後に企業の研究所の現場から始まり、2010 年代に市民の実験室とオープンソースの文化を対象に広がった。二つが同じ文献の中で論じられることはほとんどない。
最近の出来事
二つの系統とも、2026 年に大きな転換点となる出来事は見つからなかった。ここでは、ここ数年で議論の前提を変えた出来事を並べる。中心になっているのは、大規模言語モデル(LLM)が典型性の判断をどこまで人と同じように出すかという問題と、試作の場そのものの存続の問題である。
争点
1. プロトタイプは心の中にあるのか
あると見る側は、点のパターンの実験のように、見たことのない中心がよく分類される結果を挙げるPosner+ 1968。心は例から要約を作っていると考える。
ないと見る側は、範例理論が同じ結果を説明できること、典型性が「奇数」のような定義のはっきりした概念にも出ることを挙げるArmstrong+ 1983。典型性は判断の場面で生じる効果であり、頭の中に一つの型が保存されている証拠ではないと考える。ロッシュ自身も、典型性の効果を表現の理論と同一視しないよう注意していた。現在は、場面によって両方の仕組みが働くという見方が多い。
2. カテゴリーの中心は知覚が決めるか、言語が決めるか
知覚と見る側は、ロッシュの色の実験と、バーリンとケイ以来の色名の比較研究を根拠にする。言語をまたいで焦点が一致するのは、人の視覚の仕組みが共通だからだと考える。
言語と見る側は、ロバーソンらの追試Roberson+ 2000を根拠に、色名の区切りが色の判断を変えると考える。現在は、普遍的な傾向と言語ごとの区切りの両方が働き、どちらが強く出るかは課題によるという理解が広がっている。
3. LLM の典型性は人の典型性と同じものか
同じと見る側は、評定の相関や再評定の安定性が人と同程度であることを挙げるHeyman+ 2023。
違うと見る側は、モデルが評定の基準データそのものを学習している可能性と、モデルの典型が少数の有名な例に偏る傾向を挙げるLiu 2026。人の典型性は地域と文化で変わるので、平均と一致することは、特定の誰かの判断と一致することを意味しない。この問いは、典型性を誰の判断として定義するかという、ロッシュの時代には表に出なかった問題を含んでいる。
4. 試作品は開かれた実践か、未完成を言い訳にする仕組みか
開かれた実践と見る側は、メディアラボ・プラドのような場所で、試作品が専門家と市民を同じ机に着かせ、完成品の仕様を上から決めずに物事を進められたことを評価するCorsín Jiménez 2014。
批判する側は、「永久のベータ版」が、企業にとっては責任を先送りし、利用者を無償の試験者にする仕組みにもなると指摘するNeff+ 2004。同じ「未完成」が、市民の工作では参加の入口になり、プラットフォームでは説明責任の回避になる。どちらになるかは、試作品の外側、つまり誰が場所と資金を持っているかで決まる。2021 年のメディアラボ・プラドの移転は、この外側の条件がどれほど大きいかを示した。
5. 期待を集める試作品は誰のためのものか
カービーの物語内の試作品は、まだ存在しない技術に期待と資金を集めたKirby 2010。期待を集めることは、技術開発の正当な一部と見ることもできる。一方で、動いて見える試作品が、まだ解決していない問題を見えなくする危険もある。AI や自動運転の実演が、実際の性能より大きな期待を集めた例は多い。試作品が「宙づりの可能性を保つ」ものだとすれば、その宙づりが誰の利益になっているかが問われる。
6. 二つのプロトタイプを一つの枠組みで論じられるか
ここまでの争点は、それぞれの系統の内側の問いだった。最後に、この読本が第 6 章で行った並置そのものを問う。
一つの枠組みで論じられると見る立場は、両者が「定義や仕様の外で人がものを扱う仕方」という共通の主題を持ち、試作品が典型になり、典型が定義になるという一続きの過程として結べると考える。この立場では、図 10 の流れが、認知と社会と技術の規格化を一つの図で説明する。
別々に論じるべきだと見る立場は、ロッシュの議論は個人の心の判断を実験で測るものであり、人類学の議論は集団の実践を現場で記述するものであって、測っている対象も根拠の種類も違うと考える。同じ語を使っていることを根拠に結びつけると、片方の結果を他方の証拠のように扱う誤りが生じる。
この読本の立場は、後者の留保を受け入れたうえで、前者を問いを立てる道具として使うというものである。図 10 は、どこで典型が選ばれ、誰が定義を書くかを見つけるための地図であり、三つの分野の結果をつなぐ証明ではない。
資料
まず読むもの
- Cognitive Representations of Semantic Categories Rosch · J. Exp. Psychol.: General · 1975。典型性の評定。
- Basic Objects in Natural Categories Rosch, Mervis, Gray, Johnson, Boyes-Braem · Cognitive Psychology · 1976。基本レベル。
- Working Artefacts: Ethnomethods of the Prototype Suchman, Blomberg, Trigg · British J. of Sociology · 2002
- The Prototype: More than Many and Less than One Corsín Jiménez · J. of Cultural Economy · 2014
ロッシュの系統
- Universals in Color Naming and Memory Heider · 1972
- Family Resemblances Rosch, Mervis · 1975
- On the Genesis of Abstract Ideas Posner, Keele · 1968
- Context Theory of Classification Learning Medin, Schaffer · 1978
- What Some Concepts Might Not Be Armstrong, Gleitman, Gleitman · 1983
- Color Categories Are Not Universal Roberson, Davies, Davidoff · 2000
- Women, Fire, and Dangerous Things Lakoff · 1987。邦訳『認知意味論』。
- The Embodied Mind Varela, Thompson, Rosch · 1991。邦訳『身体化された心』。
- The Big Book of Concepts Murphy · 2002。概念研究の総まとめ。
人類学・科学技術社会論の系統
- Prototyping Cultures: Art, Science and Politics in Beta Corsín Jiménez 編 · Routledge
- Ethnography: A Prototype Corsín Jiménez, Estalella · Ethnos · 2017
- The Future Is Now: Diegetic Prototypes Kirby · Social Studies of Science · 2010
- Permanently Beta Neff, Stark · 2004
- Prototyping Cultures 会議プログラム CSIC · 2010
最近の資料
- The impact of ChatGPT on human data collection: typicality norming Heyman, Heyman · Behavior Research Methods · 2023
- The potential — and the pitfalls — of using pre-trained language models as cognitive science theories arXiv · 2025
- Golden Gate Bridge, as Always? Liu ほか · Transactions in GIS · 2026
- Prototype Language Models Ley ほか · arXiv · 2026-07
関連する読本
- プロトコル論読本 2026-11-04。第 6 章の図 10 で接続した。
用語集
- プロトタイプ(認知心理学) prototype
- カテゴリーの中で最もそのカテゴリーらしいと判定される例、またはその特徴のまとまり。
- 典型性 typicality
- ある成員がカテゴリーの「よい例」である度合い。評定、判定の速さ、例の挙がる順などで測る。
- 古典的カテゴリー観 classical view
- カテゴリーを必要十分条件で定義する見方。境界ははっきりし、成員は対等。
- 家族的類似 family resemblance
- 全員に共通する特徴はないが、特徴が部分的に重なり合ってまとまっている状態。ウィトゲンシュタインの語。
- 焦点色 focal color
- ある色名に最もよく当てはまる色。言語をまたいで一致しやすいとされた。
- 基本レベル basic level
- 「家具—椅子—台所の椅子」の「椅子」の段。形・動作・命名・習得で優位になる。
- 認知の経済 cognitive economy
- 少ない労力で多くの情報を得られるようにカテゴリーが作られるという原理。
- 範例理論 exemplar theory
- 要約を作らず、出会った個々の例を記憶して比べるという概念の理論。
- 理論説 theory theory
- カテゴリーのまとまりを、特徴がなぜ一緒にあるかの素朴な理論で説明する立場。
- 放射状カテゴリー radial category
- 中心事例から比喩や慣習で拡張したカテゴリー。レイコフの用語。
- エナクション enaction
- 認知を身体と環境の相互作用から生じるものとする考え。ヴァレラ、トンプソン、ロッシュが提案した。
- 試作品 prototype (artefact)
- 完成品の前の段階の物。人類学では、人を集め調整を生む物として論じられる。
- 働く人工物 working artefact
- サッチマンらの語。研究所と職場の間で、実演と修正を通じて形になる試作品。
- プロトタイピングの文化 prototyping cultures
- 試作を中心に組織される実践の文化。コルシン・ヒメネスらが論じた。
- 予示 prefiguration
- 望む未来の形を、いまの実践の中で先に示すこと。試作品はその一つの形とされる。
- 永久のベータ版 permanently beta
- 製品や組織が未完成のまま、利用者の反応で作り直され続ける状態。
- 物語内の試作品 diegetic prototype
- 映画などの物語の中で本物らしく機能して見える未来の技術。カービーの語。
- 民族誌 ethnography
- 現場に長く入り、人々の実践を記録して記述する人類学の方法。